TOPIC No.2-37-3 シベリア抑留

01. シベリア抑留 byフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
02. シベリア抑留の生々しい記録<遺稿>故岡本輝雄
03. 1945年8月9日ソ連満州侵攻・シベリア抑留(その時歴史は動いた NHK) 1/5 2009年02月27日(0resamada1) by YouTube
04. 1945年8月9日ソ連満州侵攻・シベリア抑留2/5 2009年02月27日(0resamada1) by YouTube
05. 1945年8月9日ソ連満州侵攻・シベリア抑留3/5 2009年02月27日(0resamada1) by YouTube
06. 1945年8月9日ソ連満州侵攻・シベリア抑留3/5 2009年02月27日(0resamada1) by YouTube
07. 1945年8月9日ソ連満州侵攻・シベリア抑留4/5 2009年02月27日(0resamada1) by YouTube
08. 1945年8月9日ソ連満州侵攻・シベリア抑留5/5 2009年02月27日(0resamada1) by YouTube
09. 元シベリア抑留された兵士達の証言と歴史の検証 1/7 <1994年に元抑留者達の会が行った現地慰安の旅や、歴代政府-が真剣に向き合ってこなかった歴史的事実保存の活動の必要性から製作されたドキュメン-タリー> 2009年09月24日 by YouTube
10. 元シベリア抑留された兵士達の証言と歴史の検証 2/7 by YouTube
11. 元シベリア抑留された兵士達の証言と歴史の検証 3/7 by YouTube


「命ある限りシベリアの悲劇語る」沈黙破った元抑留者

2010.11.06 13:00 MSN産経新聞

 第二次世界大戦後に旧ソ連のシベリアなどの強制収容所に連行された元抑留者2人が60年以上の沈黙を破り、7日、兵庫県洲本市で開かれる講演会で自らの抑留体験を語る。氷点下50度になる極寒下での重労働や栄養失調、衰弱死…。これまで悲惨な記憶を口にすることはなかったが、「日本人の悲劇を後世の人たちに忘れてもらっては困る」と語り部となることを決意した。いまなお全容が明らかになっていない抑留生活を知る貴重な生き証人が歴史の真実を浮き彫りにする。

 旧陸軍に所属していた渋谷京介さん(86)と岡本清さん(87)=ともに洲本市在住。

 渋谷さんは、旧満州(中国東北部)で荒野を開拓しているときに陸軍に徴兵され、直後に終戦。ソ連軍(当時)に武装解除されてシベリアの森林地帯に送られた。真冬は氷点下50度にもなる過酷な環境下、木材の切り出し作業を強制された。食事は小さなパンが3個配給されるだけ。4人部屋で朝目覚めると自分以外の3人が衰弱死していたこともあった。「1日に30人以上死ぬことも珍しくなかった。冬は土が凍って戦友の墓を掘ってやることもできなかった」と振り返る。

 一方、岡本さんは満州に駐屯する陸軍の部隊に配属されていたときに終戦を迎えた。昭和20年8月に「帰国させてやるから列車に乗れ」というソ連兵の言葉を信じたが、炭鉱に送られた。炭鉱では過酷な重労働を強いられ、見聞きしただけで11人が急性肺炎などで命を落とした。23年に極東のナホトカに移動し、農耕機械などの製造工場で働かされた。待遇の悪さを抗議すると、若いソ連兵が「すべてスターリンが悪いんだ」と弁明したことが忘れられない。

 講演会は、2人が抑留生活を体験したことを知る洲本市の元小学校教諭、高倍昭治さん(66)が「ぜひ若い人たちに歴史の真実を教えてもらいたい」と依頼したのがきっかけ。2人は「年齢的にも体力的にも今年が最後の機会になる。1人でも多くの人たちに、これまで語られることの少なかった日本人の悲劇に目を向けてほしい」などと講師を引き受けた。

 渋谷さんは「脱走を試みてソ連兵に射殺された日本人もいたが、ほとんどの死因は栄養失調だった。これからは命ある限り、シベリアの悲劇を語り続けたい」と話している。

 講演会「シベリア抑留体験を語る」は、7日午後1時半、洲本市立鮎原公民館で開かれる。入場無料。

 ■シベリア抑留 終戦直後、旧ソ連が日ソ中立条約を破って旧満州や千島列島などに侵入し、投降した日本軍の将兵や民間人約60万人を連行。将兵らは各地の強制収容所で過酷な生活条件で強制労働に従事させられた。日ソ共同声明が発表された昭和31年に抑留者の帰国がほぼ完了したが、シベリアで多くの日本人らが死亡。厚生労働省は死亡者数を5万5000人と推計している。

ジグザグかがわ:受け継ぐ「シベリア」 祖父と孫娘、京都・舞鶴で「二人展」 /香川

2010年11月06日 毎日新聞 地方版

 ◇85歳祖父と28歳孫娘、きょうから舞鶴引揚記念館で

 ◇自らの寒さ・飢え、キャンバスに−−聞いた話の印象を点と色で

 過酷なシベリア抑留体験をテーマにした、さぬき市寒川町石田西の川田一一(かずいち)さん(85)と孫娘の千田豊実さん(28)の二人展「私のシベリア 私の祖父」が、6日から京都府舞鶴市の舞鶴引揚記念館で始まる。舞鶴は、川田さんが抑留生活を終え、生還を果たした思い出の地。千田さんは「直接体験していないので悲惨さは計り知れないが、生き残った人たちが背負うものを受け継ぎ、戦争や抑留の事実が忘れられてしまわないように」と話している。

 川田さんと千田さんは昨夏、初めて二人展をさぬき市内で開いた。より多くの人に見てもらいたいと、同記念館に展示を打診し、快諾されたという。

 川田さんは1943年、南満州鉄道に入社。終戦後、シベリアの炭鉱の町に連れて行かれた。石炭掘りなどを課され、寒さと飢えに耐え抜いて49年10月に帰国した。

 15年前、2人はそろって絵を始めた。「抑留を描いて、帰国できなかった人たちを供養したかった」。川田さんは家族にも詳しい体験を話さなかったが、千田さんは祖父がキャンバスに向かう中で体験を聞いた。川田さんは炭坑での重労働などを、千田さんは祖父の話から受けたイメージを表現している。

 川田さんの新作「帰雁」は、日本へ向かう渡り鳥とは対照的に、帰国がかなわない抑留者の姿を描いた。点と色で時間や感情、場の雰囲気を表現する千田さんの新作は、抑留者の顔を描いた「倶(とも)に一つ処(ところ)に会う」。「生き延びた人も帰れなかった人も、せめて絵の中では一緒に」との思いを込めた。川田さんも「仲間を思い出し、いつか会えるという慰めにもなる」と孫娘の作品に涙をこぼす。

 展示は計15点。来年2月13日(年末年始休館)まで。午前9時〜午後5時半、入館料大人300円。問い合わせは同館(0773・68・0836)。【三上健太郎】

シベリア抑留:「シベリア夜曲」作曲者の堤さん、体験語る−−20日・枚方 /大阪

2010年10月15日 毎日新聞 地方版

 ◇励まし合い歌い継がれた

 シベリア抑留者らに歌い継がれた「シベリア夜曲」の作曲者で、枚方市在住の堤正晴さん(87)が20日午後2時から、同市新町2のメセナひらかた会館で抑留体験を語る。市とNPO法人「枚方人権まちづくり協会」主催の人権文化セミナーの一環。無料。

 堤さんは旧満州(現中国東北部)のハルビンで終戦を迎え、その後48年まで、現在のロシア・イルクーツクの収容所で抑留された。抑留中、過酷な重労働や栄養失調などで多くの仲間が亡くなっていくのを見た。

 10代後半の従軍前に独学で音楽を学び、抑留中には、自作の歌で飢えや寒さで苦しむ仲間を励ました。そうした中、収容所の仲間から「自分が書いた詩に曲をつけてもらえないか」と頼まれ、曲を書いたのが「シベリア夜曲」だった。

 申し込みは、電話(072・844・8788)かファクス(072・844・8799)で、同協会へ。先着170人。【土本匡孝】

シベリア抑留:柴田の千葉さん90歳、3年間の体験語る /宮城

2010年10月14日 毎日新聞 地方版

 ◇氷点下40度、野草食べ/次々に命落とす戦友/スターリン主義強制

 第二次世界大戦後、旧ソ連・シベリアに抑留された柴田町の千葉勝夫さん(90)が、3年間の抑留体験を初めて記者に語った。国が元抑留者に給付金を支給する特別措置法が今年6月に成立し、シベリア抑留の補償問題は大きく動いた。千葉さんは成立を歓迎する一方で、亡くなった戦友たちに思いをはせ、生還者として過酷な体験を後世に残そうと考えている。「戦争の悲劇は二度と繰り返してはいけない」。千葉さんは17日、ナホトカで捕虜から解放された日から丸62年を迎える。【比嘉洋】

 終戦から10日が過ぎた1945年8月25日、旧日本軍兵士として千島列島の松輪(マツワ)島にいた千葉さんは、上陸したソ連兵から武装解除を命じられた。「ダモイ、トウキョウ」。東京に帰還するとの説明を受けて乗り込んだ船は約1カ月後、極東ロシアに着いた。ムリー地区でのラーゲリ(収容所)生活が始まった。

 朝6時に起床し、赤い旗を先頭に隊列を組んで鉄道敷設工事が行われている作業場に向かった。歩くと腰にぶらさげた空の缶詰二つが音を立てる。昼食のスープを入れる容器だ。「空き缶の音を聞く度になんか無性に情けなくなった」

 空腹との戦いだった。夕食は黒パンに渋みの強い高粱(こうりゃん)や燕麦(えんばく)。ジャガイモはゆでて食べたが、緑に変色したイモも多く混じっており何度も吐いた。シラカバに傷をつけて樹液を飲み、松の実や飯ごうでゆでた野草を食べて飢えをしのいだ。便は緑色になった。

 夜は吸血昆虫のトコジラミ(南京虫)に悩まされた。「もうかゆくて」。昼間は壁やベッドの丸太に潜み、就寝すると襲ってくる。帽子を目深にかぶり、靴下をはいて寝たが、どこからか服の下に入り込み刺してきた。

 冬は氷点下40度に達する日もあった。屋外のくみ取り式便所では、便槽で凍った汚物が積み上がっていくため、交代でつるはしで砕く作業が必要だった。砕いた汚物は体中にかかってきたが、はたけばきれいに落ちるほど気温は低かった。

 寒さと空腹、重労働で体力をむしばまれた戦友たちは次々と命を落とした。逃亡を試み射殺された者もいた。衣服をはがされ、裸体になった遺体が馬ぞりで運ばれる光景が日常だった。

 生きていても地獄に変わりはなかった。労働後は「講習」。スターリン主義に賛同しないと「つるし上げ」に遭い、捕虜の仲間たちからも罵声(ばせい)を浴び、暴行を受ける。帰国は賛同が条件。千葉さんはスターリン主義に「染まった」。1948年10月17日、ナホトカ港で受けた思想に関する最後の身上調査に“合格”し、京都府の舞鶴港への帰国が認められた。

 実家のある上沼村(現登米市)に戻ると、床の間には抑留中に送ったはがきと一緒に、無事を願う「陰膳(ぜん)」が供えられていた。帰国を待つ母親は千葉さんの分の食事も毎日用意していたという。あの日、ほおを伝った涙は今も忘れられない。

 帰国後は幸せな日々が続いた。結婚し県職員として定年まで働いた。ただ、妻てつ子さん(87)はこう明かす。「極端に偏った思想を元に戻すのに家族はうんと苦労したんだよ」。家族に支えられ、抑留で失った尊厳を少しずつ取り戻していった。

 今月6日、千葉さんは9月に生まれたばかりの初ひ孫の遥太(はるた)ちゃんを抱いて笑顔を見せた。「長生きさせてもらってありがたい。これからは死んだ戦友のためにも戦争の悲惨さを伝えていきたい」

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 ■ことば

 ◇シベリア抑留

 旧ソ連は終戦後、満州(現中国東北部)や千島列島にいた日本人兵士など約60万人をシベリア各地に移送。鉄道敷設工事などの強制労働に従事させた。抑留の最長は11年で、少なくとも5万5000人が現地で死んだとされる。シベリア特措法の成立により、元抑留者には事実上の補償として抑留期間に応じ25万〜150万円が支給されることになった。ただ、元抑留者の平均年齢は既に88歳程度に達し、支給対象の生存者も約7万人に減っている。

平和を願って・岐阜2010:シベリア抑留体験者、大垣で最後の集い/岐阜

2010年10月10日 毎日新聞 地方版

 ◇西濃地区ダモイ会、高齢化進み42年の歴史に幕 今後も悲惨さ語り継ぐ

 第二次世界大戦後、旧ソ連のシベリアに抑留された体験者たちでつくる「西濃地区ダモイ会」の「最後の集い」が9日、大垣市郭町の大垣公園に建つ恒久平和之碑前で会員9人を含む約20人が参加して開かれた。会は1968年設立。「二度と戦争を起こしてはならない」と、平和を願う取り組みをしてきたが、戦後65年がたち、会員は多くが死亡するなどで減少、残った会員も高齢化が進み、ついに42年の歴史に幕を下ろした。

 「ダモイ」はロシア語で「帰還」。飢えと極寒の収容所生活をした人たちの「いつかは日本へ帰ろう」という願いから名付けられた。91年には戦後45年を記念し、帰らぬ兵士たちの供養と、平和を願って「恒久平和之碑」を建立した。

 しかし、当時72人いた会員が今では16人。その平均年齢も88歳と高齢化、何人かは病床にあるという。このため、会として行ってきた広島や長崎の平和記念式典への参加や平和への祈りを込めた演奏会なども数年前から中断。会としての活動ができないことから、最後の集いを開いた。会員たちは、今後も個人や他の団体などでシベリア抑留体験を語り継いでいくという。

 最後の集いでは、全員でシベリア抑留で亡くなった人たちの冥福を祈り、黙とう。会長の永井明さん(94)や顧問の今川順夫さん(87)が、これまでの活動に対して会員へねぎらいの言葉をかけた後、今川さんが「日本に帰ることができずにシベリアで亡くなった人たちの礎で今日の平和がある。日本に戻った人たちの苦労も忘れられない。残る余生も平和への願いを込めて生きていきたい」とあいさつ。永井さんと今川さんが碑に献花し、会員たちは碑の前で記念写真に納まっていた。【子林光和】

【同行ルポ】泥まみれ遺骨、過酷な手掘り シベリア抑留者遺族

2010.09.09 12:07 MSN産経新聞

 65年前の終戦後、旧満州(中国東北部)や朝鮮半島の日本人が強制的にかり出された旧ソ連のシベリア抑留。約56万1千人の抑留者のうち、約5万3千人が命を落とし、今も3万5千以上の遺骨が残されたままだ。今年8月、遺族や元抑留者らで構成する遺骨収集の政府派遣団が現地を訪れたが、新たに収容されたのは37人分。時とともに収集作業が困難さを増す一方、祖国帰還を待ち続ける遺骨収集事業継続の必要性を改めて感じた。(池田祥子)

 ■膝まで水、過酷な作業

 日本の北方約2千キロにあるロシア・ハバロフスク地方のエボロン村。ハバロフスク市から鉄道とバスで約14時間、人口約1500人の小村だ。

 ここにはかつて、日本人を抑留した第5収容所第3支部があり、ロシア側の資料によると、199人が埋葬された。厚生労働省は5年あまり前から試掘で埋葬地の特定を進め、今春、1人分の遺骨を発見し、今回の派遣につながった。

 8人の派遣団のうち、最高齢の元抑留者は86歳。収集作業は8月17〜25日に行われた。

 村郊外の湿地帯にある埋葬地へは車の乗り入れは不可能で、片道約30分の道中、ひざまで水につかりながら歩く。ぬかるみや草に足をとられながら、一行は連日往復を続けた。

 ■深さ80センチ…ようやく発見

 埋葬地はシラカバとカラマツの雑木林に囲まれていた。時折、近くを通る鉄道の列車音が聞こえる。抑留者は鉄道建設に従事させられ、飢えや病、寒さで多くが命を落としたという。

 近くにロシア人の墓地があるとの理由で重機は使えず、作業はすべて手掘り。10人のロシア人作業員が穴を掘り進め、派遣団のメンバーが骨を確認する。

 「出たぞ!」。作業初日、深さ80センチほどの穴の中に入った遺族が、小型のくま手で土をかき分け、遺骨を取り出した。六十余年ぶりに日の光を浴びた骨は、泥にまみれていた。からみついていた細かな木の根を、はけで丁寧に取り除いた。

 歯がほとんどない頭骨もあった。「ここでみんな苦労しなさったんだ」。シベリア抑留で父を亡くした派遣団メンバー、鳥居一正さん(70)がつぶやいた。

 中には欧州系の人の骨も混在し、法医学医師が鑑定しながら続けられた。

 ■「残しておけぬ」

 5日目以降、ぱったりと遺骨が見つからなくなった。「おかしい。ある程度見つかったら埋葬地の全体図がわかるはずなのに…」。沈みがちだった雰囲気の中、最終日前日になって、深さ約1.3メートルの水がわき出る場所で新たな遺骨が見つかり、シャツのボタンなども出た。

 作業を終え、村で焼骨式が営まれた。37基の丸太組みを並べ、一人一人を荼毘(だび)に付した。煙が、日本に続く空へとゆっくり流れていく。「ご苦労さまでした。一緒に日本へ帰りましょう…」。小さくなった遺骨をみなで拾った。

 「シベリアでの遺骨収集を取り巻く環境は、年々厳しくなっている。収集しやすい埋葬地はなくなり、困難な場所しか残っていない」。厚労省担当者が話した。一行は、今回見つけられなかった遺骨への無念を胸に改めて心を重ねた。「このままここに残しておくことは決してできない」

      ◇

 【用語解説】海外戦没者の遺骨収集政府派遣団

 昭和27年以降、主に南方地域への派遣を開始。厚生労働省(旧厚生省)職員のほか、遺族や元兵士、民間人で構成される。今年8月末までに日本に帰還した遺骨126万人分のうち、32万8千人分を収集。シベリア抑留者を対象とした派遣は平成3年から始まり、昨年度までに154回実施され、1万7174人分が帰還した。

シベリア抑留9人処刑新たに判明 露記録、全容解明遠く

2010.08.30 01:34 MSN産経新聞

銃殺や極刑の記録があった抑留者

 【モスクワ=佐藤貴生】第二次大戦後、約60万人の日本人がソ連に連行、抑留された問題で、抑留者9人が銃殺などにより処刑されたことを示す新たな記録が、29日までに見つかった。厚生労働省は、抑留者のうち約5万5千人が日本に帰国できず死亡したと推計しているが、処刑による死亡が明らかになることはまれだ。戦後65年が過ぎても、抑留の全容解明にはほど遠いことを象徴しており、ロシアの姿勢が改めて問われている。

 新たな記録は、ロシアの歴史研究者が、モスクワにあるロシア国立軍事公文書館で発見した。館内に保管されている抑留者の生年や出生地などを記した「個人カード」を調べ、判明した。すべてロシア語表記で、ソ連の取調官の抑留者に対する尋問結果をもとに作成されたとみられる。

 記録によると、9人は終戦翌年の1946年から50年にかけて処刑された。「反革命罪」の規定があるソ連刑法第58条に違反したとの記述もあり、スパイ活動に従事したと判断されたとみられる。

 9人のカードの大半には「極刑」と書かれ、刑の執行日か死亡年月日が記されている。当時のソ連では、極刑は銃殺に処すのが通例だった。記録を発見した研究者は「死因が記入されていない人のカードでも、『極刑』と大きく書かれており、銃殺された可能性が高い」とみている。

 刑は極東ハバロフスクやシベリアのチタで執行され、20歳未満の人もいた。同じ日に3人が処刑されたケースもある。判決期日は記載されておらず、略式裁判で即決された可能性もある。

 ソ連で銃殺された抑留者について、総務省所管の平和祈念事業特別基金が発行した「戦後強制抑留史」(2005年)は、23人の氏名を掲載するにとどまっている。うち12人は産経新聞が00年7月に報じた。

 今回明らかになった9人はこれとは別だが、処刑により死亡した抑留者の総数は不明だ。厚労省は抑留者の情報に関しては「プライバシー保護の観点から、本人か遺族からの調査依頼に限って応じる」としている。このため、抑留者がどのように死を迎えたかも第三者に公表していない。

 スターリンのソ連は45年8月、日ソ中立条約を破って対日参戦した。満州などから日本軍の兵士や軍属、一般人の約57万5千人を連行し、2〜11年間にわたって鉄道建設や森林伐採などの重労働を強制し、寒さや飢えなどで約5万5千人が死亡した。

【シベリア抑留9人処刑】「対日戦勝」正当化進める露 実態隠し

2010.08.30 01:44 MSN産経新聞

 【モスクワ=佐藤貴生】戦後最大の悲劇ともいわれるシベリアなどへの日本人抑留問題は、北方領土の不法占拠と同様、終戦直前に中立条約を破り対日参戦したスターリンのソ連が引き起こした。人道に対する罪といっても過言ではない。にもかかわらず、後継国家ロシアは今年、日本が降伏文書に署名した9月2日を事実上の“対日戦勝記念日”に制定し、日本人抑留の実態などを覆い隠したまま、参戦を正当化する戦略を推し進めている。

 ロシアは1991年に締結の日ソ政府間協定を継承し、抑留中に死亡した日本人の名簿を段階的に日本側に提供してきた。昨年には、70万枚もの抑留者の経歴を記した「個人カード」の情報の引き渡しも始まった。だが、戦後40年以上が経過した後の情報提供開始は、遅きに失したというほかない。宅地造成や墓地の移動、ロシア人との合葬などで遺骨の発見、特定はますます困難を極めている。

 さらに、ロシア側の不誠実な対応も目につく。91年の協定には、「日本人死亡者の埋葬地が適切な状態に保たれるよう努めること」と明記されている。だが、昨年ロシアの抑留者墓地を訪れた元抑留者は「墓の荒廃がひどい」と証言する。ロシア政府は抑留者墓地の整備費を、ほとんど予算に計上していないという。

 抑留者本人はもちろん、その子供の世代も高齢化が進み、一刻も早い実態解明が待たれている。チチハル(現中国黒竜江省)の特務機関長で、ソ連に抑留された田中義久さんの長女、内田和子さん(75)=名古屋在住=は「墓地はもちろん、どこに収容されていたかもいまだに分からない。ソ連は許せない」と話す。

 一方で、スターリンのソ連が2万人以上のポーランド人を連行、銃殺した「カチンの森事件」(40年)では今年、歴史的な和解が実現した。ロシアとポーランドの首相が初めて現場で顔を合わせ、70周年の追悼式典に参加した。

 ポーランドは欧州屈指の対露批判派として知られ、ことあるごとにロシアの高圧的な対外政策を批判してきた。同事件をめぐる対露不信もその一因だ。

 領土問題が横たわる日露関係と同列には論じられない。が、真の相互信頼関係を築こうと考えるのなら、日本政府もポーランドのように「言うべきことは毅然(きぜん)と言い続ける姿勢」を堅持すべきだろう。

シベリア抑留中に死亡、37人分遺骨引渡式 千鳥ケ淵墓苑

2010.08.30 23:04 MSN産経新聞

 第二次世界大戦終結後に旧ソ連のシベリア抑留中に死亡した日本兵らの遺骨収集のため、ロシア・ハバロフスク地方を訪れた政府派遣団による遺骨引渡式が30日、東京・千鳥ケ淵戦没者墓苑で行われた。今回収集した計37人分の遺骨は、DNA型鑑定を実施し、身元が判明した場合には遺族に返還され、それ以外については同墓苑に納められる。

 政府派遣団は遺族や元抑留者、大学生ら計8人で構成。8月12〜30日の19日間、ハバロフスク地方エボロン村にある第5収容所第3支部の埋葬地(199人分)で収集を行った。

 埋葬地は湿地帯にある上、ロシア人墓地と混在しており、ロシア側から提供された資料を基に作業を進めたが、埋葬場所の特定に難航した。

 派遣団員の元抑留者、大阪府河内長野市の荒木正則さん(86)は「まだ多くの仲間が残されており、今後も国家事業として継続してほしいと、今回派遣に参加して改めて感じた」と話していた。

 厚生労働省によると、約56万1千人がシベリアに抑留され、死者は約5万3千人、今も3万5千人超の遺骨が現地に残っていると推定される。

【戦後65年 伝えたい記憶】(1)大陸で あのノモンハン…麻酔なしで腹を手術

2010.08.14 07:00 MSN産経新聞

当時18歳の徳永清見さん(89)=大阪市城東区

 焼け付くような暑い日だった。昭和14年7月、満州(現・中国東北部)とモンゴルとの国境付近を流れるホルステン川近くに掘った壕(ごう)(穴)のなかで、ソ連軍との戦闘に備えていた。

 18歳で志願し、約4カ月の初年兵教育を終えたばかり。関東軍独立守備隊に所属、戦車に迫って火炎ビンをぶつける「肉薄攻撃班」の一兵士としての訓練も受けた。

 壕の中で持たされたのは三八式歩兵銃だけだった。ソ連軍の猛烈な砲撃に多くの壕が崩された。地上にはい出した兵は、狙撃されたり砲撃されたりした。戦車に踏みつぶされる兵の姿もみた。

 しかし、壕が小高い丘の上にあったことが、幸いしたのか、戦車が迫ってこなかった。頭上を飛び交う銃弾と激しい砲撃でなすすべがなかった。

 戦闘がやみ周囲を見回すと、日本兵の遺体が山のように重なっていた。うめき声をあげる兵たちの中に、全身に破片を受け、瀕死(ひんし)状態の同年(同期)兵がいた。

 同じ愛媛県出身。生き残った戦友と2人して銃で担架をつくり運ぼうとした。が、軍医が「もうだめだ」。やむなく置き去りにした。痛恨の極みだった。

 前日にも、丸2日の飲まず食わずの行軍の末に戦闘があった。夜になってようやく水とコメが補給された。水にはボウフラがわいていた。それでも、布でこして、ガブガブ飲んだ。

 あこがれてなった兵隊、愛国心も人一倍強かった。しかし、軍隊では「撃鉄をひくときは、暗夜に霜の降るごとく」との一発必中の教えや、上空の飛行機を撃った際に将校が言った「何発撃ったか数えろ」との命令に内心あきれ、日本の勝利を危ぶんでいた。

 ノモンハンからの生還後、昭和17年4月に除隊。満鉄勤務を経て、海軍の警察分遣隊で勤務していた海南島(中国)で終戦を迎えた。戦後は大阪で警察官として、駐在所・交番に長く勤務した。

 多くの戦友が亡くなった戦いに今も憤りは消えない。しかし、チャランポランな今の世の中、軍隊は厳しいところだったが、そこで人間形成されたという思いが強い。

 一昨年、京都・舞鶴に住んでいたノモンハンの生き残りの戦友が亡くなった。戦友という戦友がみんな死んだ。さびしくて…。ノモンハンを知る人と話をしたい。痛切にそう願っている。

陸軍歩兵として昭和19年、中国南西部の南昌(江西省)付近の前線にいた当時22歳の木田富士雄さん(87)=和歌山県新宮市

 その日は紀元節(現・建国記念の日、2月11日)で、陣地でも赤飯を炊いていた。

 敵は、祝日で骨休め気分でいることを知っており、迫撃砲を撃ち込んできた。気がつくと、砲弾の破片が腹に刺さっていた。まわりには、足のちぎれた兵隊が2人。

 連絡を受けてトラックで陣地にやってきた軍医は2人に麻酔を使い、破片創の自分には麻酔なしで手術をした。腸が傷ついていたので、軍医は盲腸も引っ張り出して取った。塹壕(ざんごう)の土ぼこりが舞う中で、メスで腹を切られるたびに気絶した。

 【用語解説】ノモンハン事件

 旧満州国とモンゴル人民共和国との国境紛争をめぐり、昭和14(1939)年5月に始まった日本とソ連両軍の軍事衝突。日本軍は、装備を近代化したソ連軍に大打撃を受け、同年9月に停戦協定を締結した。

               ◇

 第二次世界大戦の終結から15日で65年。風化が進む戦争の記憶を次の世代に伝えるため、戦地での体験談などを紹介する。

引き裂かれた歳月 〜証言記録 シベリア抑留〜

2010年08月08日(日) 午後9時00分〜9時49分 NHKスペシャル

 太平洋戦争終結後、57万人以上の人々が強制労働を強いられた「シベリア抑留」。酷寒や飢餓により、少なくとも5万5千人以上が命を落としたとされる。この番組は、数多くの抑留体験者の証言を積み重ねることで、「シベリア抑留」という悲劇の全体像を多面的に浮かび上がらせるものである。

 長期にわたる過酷な収容所生活の中で、抑留者一人一人はどんな決断を強いられ、どのように生きたのか?なぜ今も、抑留体験者は、深い葛藤を抱え続けねばならないのか?苛烈な生存競争を激化させた日本軍組織の矛盾。そして多くの抑留体験者たちが米ソ冷戦という国家間の対立の中で幾重にも引き裂かれ、日本に帰国を果たした後も困難な人生を余儀なくされた。戦後65年の今、肉声で語る「シベリア抑留」の記録。

シベリア抑留の証言映画 14日、東京・杉並で上映会

2010.08.07 09:50 MSN産経新聞

 第二次大戦後に旧ソ連のシベリアなどの強制収容所(ラーゲリ)に連行された元抑留者31人の証言を集めた記録映画「帰還証言 ラーゲリから帰ったオールドボーイたち」の上映会が8月14日、東京都杉並区の産業商工会館で開かれる。

 31人は70代後半〜90代半ばで、旧ソ連のハバロフスクやナホトカ、モンゴルのウランバートルなどに2〜5年間抑留された体験を証言。飢えや寒さに耐えた現地での生活に加え、旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島などから抑留地まで連行された過酷な道程についても語っている。

 京都市在住の女性いしとびたまさんが2008年4月から1年かけ、1人で京都や大阪、横浜、韓国で撮影、編集した。

 上映会は午後1時15分から前編(70分)、後編(90分)。無料。問い合わせは日本海時代の祭典、電話は090・4713・1299。(共同)

【正論】終戦から65年 杏林大学名誉教授・田久保忠衛

2010.08.06 02:58 MSN産経新聞

 ■戦後の長い眠りから覚めるとき

 いくら戦前の反動だと説明しても、65年の惰眠は長すぎると思う。しびれを切らしたわれわれ有志は、国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)を3年前に創設した。趣旨書は冒頭で「私たちは現在の日本に言い知れぬ危機感を抱いております。緊張感と不安感の度を増す国際情勢とは裏腹に、戦後体制から脱却しようとする志は揺らぎ、国民の関心はもっぱら当面の問題に偏っているように見受けられます」と述べた。

 民主党政権の出現に合わせるかのように、政、官、財、言論界などの一部に「こんな日本でいいのか」との新たな警鐘が鳴らされているようだが、国家全体の地盤沈下は戦後体制を是認してきた人たちも等しく認めざるを得ないだろう。半世紀以上前に日本を襲ったパシフィズム(平和主義ではなく不戦主義)は、不況の中でも「食っていけさえすればいい」との安易な心理を生み、どこまでこの国が落ちていくのかわからない。

 ◆惨めさから経済復興果たすも

 旧制中学の1年生で敗戦を迎えた衝撃は鮮明に憶えている。近くの駅前にはマーケットができ、軍服などの古着や履物が並び、得体(えたい)の知れない食物の前に大勢の人々が殺到していた。デンスケ賭博だろう。テーブルの上でたばこのピース箱3個をかき混ぜ、裏側の目印のついた箱にカネを張らせる。善良な賭け人がみるみる損をしていく。少しでも文句をつけた途端に他の仲間が出てきて殴る、蹴(け)るの暴行が行われた。焼け跡の薄暗いガード下に米兵のジープを待つ口紅を真っ赤に塗った女性たちがたむろしていたのも目撃した。

 敗戦の惨めさが原点になっていたと思う。われわれの上の世代で戦争体験者の人々を中心に日本は見事に経済の復興を果たしたと言っていい。ただ、経済大国の地位を得た途端にこれを正当化する人物が登場した。菅直人首相が6月11日の所信表明演説で「現実主義者」として敬意を表した故永井陽之助・青山学院大学名誉教授だ。挙げられた著書『平和の代償』は1967年の出版当時、月刊誌「世界」を中心に大手を振っていた非武装中立論の中で、米国の国際政治専門家の常識を述べたものだ。その中で永井氏は日米同盟を必要だと言いながら、漸次米軍基地を縮小して有事駐留に持っていくべきだと説いた。確かにいまの民主党幹部の発言に通底する思考だが、「現実論」からはほど遠い。

 18年後の1985年に同氏は「現代と戦略」を書き、ここで戦後の保守政党が続けてきた「軽武装・経済大国」、それを支えてきた社会党などの野党勢力による「反軍・平和主義の国民感情」を「輝ける吉田ドクトリン」と称揚した。その2年前には大韓航空機が樺太上空でソ連戦闘機により撃墜され、ラングーンでは北朝鮮のテロリストが韓国閣僚らを爆殺する血腥(なまぐさ)い事件が続発している。吉田茂首相が口にもしなかった偽「吉田ドクトリン」は憲法を中心とした戦後体制そのものだ。

 ◆国際常識から外れた政治認識

 国際的プレーヤーに脱皮する大きな機会はあった。91年の湾岸戦争である。日本は130億ドルの大金を払い、汗も血も流さずに「吉田ドクトリン」を謳歌(おうか)した。戦いが終わり、クウェートは35カ国に新聞で謝意を表したが、日本の国名は脱落していた。多国籍軍が行動を開始した途端に日本の市民団体が集会を開き、米大使館に押しかけた。激励ではなく抗議に行ったのは、無法な侵略者サダム・フセインに好意を寄せていたからだろうか。

 社会党の党大会では非武装中立、反自衛隊、反安保が叫ばれ、誰に対する抗議か知らないが、ストライキを打てとの議論が出ていた。自民党にいた小沢一郎氏がこのあといかにもわかったような顔で「普通の国」論をぶったが、口先だけだったことはその後の彼の言動が証明している。

 国全体が国際的常識から大きく外れていった。菅政権の立場がどこにあるかは言うまでもない。悲劇である。

 戦後にいまだどっぷりと漬かり、緊張感のないわれわれの目前にいつの間にか大きな存在として登場したのが中国だ。日中関係の重要性はわかるが、個人と国家の関係は峻別(しゅんべつ)しなければならない。中国は、日本を「軍事大国化を目指している」と一時は非難し、人の良い日本人が必死になって日本はそのつもりはありません、などと弁解しているうちに日本の防衛費の3倍を支出する軍事大国に化けた。13億人の生活水準を向上させるために軍事、経済、人口などの面で国境を接している国にはとりわけ圧力が及びつつある。中国に「吉田ドクトリン」が通用するのか。

 安倍晋三政権のときにこの国は戦後の長い眠りから覚めると期待していたが、もう国家としての耐用年数は切れそうだ。ペリー来航以後わずか15年で先人たちは明治維新をなし遂げた。いささか遅すぎるきらいはあるが、志のある政治家にはいまこそ立ち上がってほしい。(たくぼ ただえ)

広がる抑留者の“言霊” 再演重ねるシベリア抑留劇「ダモイ」

2010.07.09 07:36 MSN産経新聞

舞台「ダモイ」で山本幡男さんを演じる下條アトムさん(右)に、父を語る長男の顕一さん=東京・錦糸町

 終戦後のシベリア抑留の実態を描いた辺見じゅんさんのノンフィクション「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」を舞台化した「ダモイ」(ふたくちつよし作・演出)が、再演を重ねている。収容所での絶望的な状況下、ダモイ(帰還)の希望を失わず仲間を励まし続けた山本幡男さん(享年45)の遺書が、監視の目をくぐり抜けるため仲間の記憶によって、敗戦から12年目に伝えられた事実に基づく3人芝居だ。

 山本さんは戦前、旧満州鉄道に勤務。昭和19年に召集され、シベリア抑留中の29年に亡くなった。60万人といわれる抑留者は、寒さと飢えの中での強制労働で6万人が亡くなったとされるが、収容所で山本さんは「美しい日本語を忘れぬため」と句会を主宰。ダモイは果たせなかったが、山本さんを慕う仲間7人が、記憶という手段で遺書を届けた事実は、辺見さんの著作に詳しい。

補償求め菅首相に要望書 韓国の元抑留者、近く提出

2010.06.28 21:38 MSN産経新聞

 第2次大戦後、シベリアなど旧ソ連圏で旧日本軍兵士として強制労働に従事させられた韓国人の元抑留者でつくる「韓国シベリア朔風会」が、日本政府の謝罪や補償を求め、菅直人首相にあてた要望書を提出することを決めた。関係者が28日、明らかにした。

 同会メンバーらは高齢で訪日が難しいことなどから、要望書は日本の支援者を通じて近く首相側に渡される予定。

 日本では元抑留者に対し、1人最高150万円の一時金を支給する特別措置法が16日に成立。対象は日本国籍を持つ元抑留者に限られ、韓国などかつての植民地出身者への対応が課題となっている。

 要望書は、韓国人の元抑留者が酷寒の地で3年以上つらい労働を強いられ、韓国に帰国後は「共産主義者のレッテルを張られる差別」まで受けたと説明。(共同)

【眠れぬ墓標】(1)対面 「まさか帰って来はるとは」戦死の兄の遺骨に弟

2010.05.31 21:58 MSN産経新聞

68年ぶりに遺骨が戻った兄の思い出を語る井上信正さん=京都市東山区(柿平博文撮影)

 その日は朝から雨が降り、窓外の桜が濡れそぼっていた。「帰郷を喜ぶ兄や両親の涙のようだ」。井上信正(85)=京都市東山区=は深い思いをかみしめていた。

 今年3月29日。井上は京都府長岡京市の長男宅で、68年ぶりに戻ってきた兄、實(みのる)の遺骨と対面した。兄は昭和17年1月に入隊し、はるかニューギニアの地で9カ月後に21歳の若さで亡くなった。

 「まさか帰って来はるとは思わんかった」。古いアルバムを前に、井上はつぶやく。入隊前の写真には、三ぞろえの背広を着た父と兄、母と2人の姉、井上の家族6人が写っていた。丸眼鏡をかけた兄は、誇らしげな表情を浮かべている。

 弁論大会にも積極的に参加するような活発な性格。出征前は、大阪市天王寺区で父が手広く経営していた洋装店を手伝っていた。

 兄の戦死後、一家は空襲で焼け出され、京都へ疎開。そのまま京都に根を張り、戦後を生きてきた。父は昭和37年、母は49年にこの世を去った。井上は「覚悟していたとはいえ、兄が死に、店もなくし、仕事に没頭していた父の人生は、その後大きく変わった」と振り返る。

 兄の記憶すら遠くなりかけていた昨年4月、自宅に突然、厚生労働省から連絡が入った。

 「パプアニューギニアで實さんの名前が刻まれた、たばこケースが見つかりました」。聞けば、豪州人の旅行ガイドが川沿いの山道に4人の遺骨が埋葬されているのを見つけ、1つにケースが一緒に埋めてあったという。当時の首都攻略戦で日本軍が通った道だった。

 17年3月に始まった東部ニューギニア戦は、終戦まで壮絶な飢餓に苦しめられ、12万人もの命が奪われた。戦渦が広がるにつれ多くの遺体が密林に放置されたが、兄の死は初期だったため、仲間が埋葬してくれたらしい。

 井上は厚労省の呼びかけでDNA鑑定に応じ、遺骨が兄であることがわかった。身元確認にDNA鑑定を用いる手法は平成15年度から始まったまだ新しい取り組みで、これまで身元が判明した760人分の大半は、保存状態が良好なシベリア抑留者の遺骨。戦地で収集された遺骨で判明したのは、兄が2例目だった。

 「無理やとあきらめていた…」。京都府綾部市の山本正(79)の兄、俊一の遺骨も昨年7月、DNA鑑定の末に戻ってきた。

 18歳違いの兄は、21歳で入隊し、そのまま満州(現・中国東北部)に渡ったきりになった。昭和23年ごろ、シベリアの収容所で死んだという知らせが来たが、戻ってきた骨つぼには、名前が書かれた板きれが入っていただけだった。

 「兄弟いうても親子ほど年も違うでな」。山本には、16年に一時帰国した際、軍刀を手入れする姿がかすかに記憶にあるくらいだ。義姉と2人の子供は終戦直後、満州からの引き揚げ途中に死亡したが、ほかの引き揚げ者によって奇跡的に遺髪と爪が戻った。

 兄の遺骨は、政府の収集団がシベリアから持ち帰った抑留者の遺骨の中から見つかった。戻ってきた日は近所の人も出迎えてくれ、山本はその日のうちに法要を済ませ、墓に納めた。

 「兄貴も義姉(ねえ)さんも、お互いの消息すら分からないまま死んでしまった。60年以上も待ったんやけんね、一刻も早く一緒に入れてやりたかった。遺髪と爪とはいえ義姉さんらも帰ってきたし、兄貴たちは幸せやった」

 あの戦争から65年。その間、残された肉親も、日本自体も、さまざまな変化を経験した。

 井上は語る。「突然兄の遺骨が戻ってきたことに、うれしさの半面、信じられないという思いも強い。あまりにも歳月が長すぎた」(敬称略)

     ◇

 国のために戦地に赴き、いまだ帰れぬ遺骨がある。時代に翻弄(ほんろう)された命のために、国は、われわれは何をすべきか。今一度見つめ直す。

【眠れぬ墓標】(2)悔悟 シベリア抑留「人としての心を失っていた」

2010.06.01 21:59 MSN産経新聞

 夏の太陽が容赦なく照りつける中、馬に乗ったソ連兵の監視下で、敗戦という衝撃から抜け出せないままの日本兵が、ただ大地を歩かされていた。

 昭和20年8月15日。当時19歳でわずか3カ月前に現地入隊したばかりの村山常雄(84)=新潟県糸魚川市=は、満州(現・中国東北部)東部の旧ソ連国境近くの山中にいた。

 8月26日、上官に告げられて初めて終戦を知った。「ソ連が武装解除する。ただちに白旗を掲げよ」。気持ちの整理もつかないまま、捕虜となった。

 徒歩での移動距離は約200キロ。目的地は知らされず、ソ連兵の「ダモイ トウキョウ」(東京へ帰るんだ)という言葉を信じるしかなかった。大陸特有の気候で、日が落ちると冷え込む。休憩でいったん腰を下ろすと立ち上がれない人もいた。「待ってくれっ」。背中にすがる声に、誰も振り返る余裕はなかった。

 やがて、同期兵4人とともに貨車に押し込まれた。身動きもとれない車内。着たきりの夏服がアカとほこりでテカテカ光っていた。

 10日ほどたっただろうか。突然貨車から降ろされると、夕暮れの中、目の前に水辺が広がっていた。「海だ、日本海だ。ここから日本に帰れるんだ」。疲れきった表情に一瞬喜びがあふれたのもつかの間、貨車ごと船に乗せられ、鉄条網に囲まれた木造の粗末なバラックへと送られた。

 ハバロフスク北東のムリー地区収容所。終戦を迎えた地から、直線距離で約1千キロ離れていた。日本海だと思った水辺は、広大なアムール川。すでに10月に入り、粉雪が舞っていた。

 村山はそれから4年もの間、シベリアで抑留生活を送った。数カ月単位で延べ10カ所以上の収容所に移され、「荷物を持て」と命じられるたびに「帰れるのでは」という期待を抱いては裏切られた。抑留後、電灯の明かりを初めて見たのは2年後。過酷な強制労働の日々を過ごしてきた。

 黒パンや粟、コーリャンがわずかに浮いたおかゆのような食事で、日がな森林伐採などにかり出される。冬の気温は氷点を大きく下回った。

 月に1回、労働力選別のための体格検査があった。医師が抑留者の尻の皮を引っ張る。やせているほど、たるんだ皮がよく伸びる。「その伸び具合で、労働の種類やノルマが決められたんです」

 居住区の鉄条網の中は、日本軍の階級意識がそのまま維持されていた。初年兵の村山と同期4人は、ボス的存在の下士官のターゲットにされた。

 同期のフルカワは極度の近眼だったが、下士官らの理不尽な制裁に遭い、眼鏡が割れ、視力が奪われた。とたんに生きるすべを失い、衰弱が目立つ。ある日、フルカワは収容所内で倒れ、ソリで外部に運ばれ、それっきり消息が分からなくなった。

 「このとき、建物の陰で4人が集まり『必ず生き延びて下士官を殺す』と誓い合った。ソ連の待遇も悪かったが、日本軍の階級制度は本当に…」。振り返る村山の目に、涙があふれる。

 「朝起きると、隣に寝ていた男が死んでいても、その死にいちいち関心を持つような状況ではなかった。完全に人としての心を失っていた」。年老いた表情に、深い悔悟の念がにじむ。

 それでも「私ら生還できた者はまだ恵まれている」と言う。いまだ脳裏から離れないのは、帰国を願いながら、心身とも疲弊して死んでいった多くの仲間のことだ。

 長らく深い心の傷に苦しめられてきたが、村山は約15年前から、仲間たちの“生きた証”をたどる作業に人生を費やしてきた。

 「今も、多くの抑留者が消息不明だったり、遺骨も戻ってきていない。本当の意味で、国は戦争で死んだ人々への追悼を行っていない」。胸裏に、言いようのない無念の思いが去来している。(敬称略)

 ■シベリア抑留 昭和20年8月9日、日ソ中立条約を破棄してソ連が参戦。終戦後、満州や朝鮮半島にいた日本の軍人や民間人がシベリアに抑留され、強制労働に従事させられた。厚生労働省によると、約56万1千人が抑留され、死者は約5万3千人、今も3万人分超の遺骨が現地に残っていると推定される。

シベリア抑留で給付金 特措法、全会一致で提出

2010.05.20 17:45 MSN産経新聞

 第2次大戦後に旧ソ連・シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人最高150万円の給付金を支給する特別措置法案が20日、参院総務委員会で佐藤泰介委員長(民主党)により提案され、全会一致で参院本会議への提出を決めた。21日の本会議で可決、衆院に送付され、今国会で成立する運び。約60万人が抑留されたとみられる戦後補償問題に政治解決が図られる。

シベリア抑留者に特別給付金 政府・与党3党が合意

2010年05月12日3時1分 asahi.com

 旧ソ連のシベリアやモンゴルに抑留された元日本兵らが国家賠償を求めている問題で、政府と連立与党3党は11日、抑留された期間に応じて1人当たり25万〜150万円の特別給付金を支給する方針を決めた。生存している元抑留者の約8万人が対象。自民、公明など野党にも呼びかけ、今国会に議員立法で提出して成立をめざす。

 政府・与党の了解事項をまとめた案によると、元抑留者の高齢化が進んでいる現状から「多大な苦難のもと、過酷な強制労働に従事した特別の事情があることにかんがみ、特別給付金の支給を行う」と明記。今年9月に廃止される独立行政法人「平和祈念事業特別基金」を2013年3月末まで存続させ、資本金に当たる200億円を取り崩して給付に充てる。

 また、給付金の支給を元抑留者に対する国家補償の「最終の措置」と位置づけ、国を相手取った訴訟については取り下げを働きかける。

 日本政府はこれまで「国に法的な補償責任はない」と主張。最高裁も1997年、「立法府の裁量的判断に委ねられる」との判断を示している。民主党は野党時代、特別給付金を支給する法案を国会に繰り返し提出していた。

 第2次世界大戦後、日本兵など約58万人が抑留されて鉄道建設など強制労働を強いられ、飢えなどによる死者は5万人を超えたとされる。

抑留者に最高150万の特別給付金 政府・与党案が判明

2010.05.11 22:00 MSN産経新聞

 旧日本軍兵士らが戦後、旧ソ連圏で強制労働させられたシベリア抑留をめぐり、政府・与党が検討している救済措置の了解事項案が11日、分かった。抑留者を抑留期間に応じて5段階に分け、最高で1人150万円の特別給付金を支給。平和祈念事業特別基金200億円を財源に充てる。特別給付金支給により、抑留者への救済措置は終了することも明記した。今週中にも政府・与党で合意、今国会での法案成立を目指す。

過酷な生活、望郷の念…シベリア抑留中の文集・写真見つかる

2010.05.09 00:03 MSN産経新聞

 昭和20年代にシベリアに抑留された人たちが、抑留生活の苦労を俳句や詩などに記した手書きの文集や、当時の労働の様子を写した写真が、埼玉県草加市の民家で見つかった。収容生活を経験し、平成19年に亡くなった駒杵(こまきね)健治さん(享年88)が保管していたのを遺族が見つけた。貴重な文集は4月29日の昭和の日に靖国神社に寄贈された。(大坪玲央)

 駒杵さんは朝鮮半島北部で中隊長として20年8月の終戦を迎えた。

 しかし、旧ソ連によって日本から約6千キロ離れたタタール(現タタルスタン)共和国のエラブカ収容所に23年まで収容。同収容所には約3千人の日本人のほか、ドイツ、イタリア兵も連行されたという。

 文集のタイトルは「やぶれ傘」。「昭和22年4月1日発行」と記されている。作品を寄せた日本人収容者らが貴重な1冊を回覧していたようだ。

 文字や挿絵が万年筆で書かれており、色あせしているが60年以上たった今もはっきりと読める。

 全33ページに11人が随筆や俳句、川柳や詩などを寄せている。文集の初めには「創刊の歓(よろこ)び」として、「ダモイ(帰国)説濃厚に吾々(われわれ)の身辺を取巻く時 愈(いよいよ)やぶれ傘創刊号が発刊された事は皆と倶(とも)に大ゐなる歓びとしたい」などとあった。

 「帰るべくして 帰らぬ吾に 星月夜」など望郷の念を示唆する句や、「まっくらな大きな静かな室 病みてうごめく人々…」という療養中の生活を記した詩もある。

 駒杵さんの友人で同じ収容所にいた、飯島英雄さん(89)=横浜市=は、「文集には帰国の思いがはっきりと記されていない。帰れないつらさが増すので、あえて入れなかったのでは」と推し量った。

 やはり同収容所にいた相沢英之元衆院議員(90)は「収容所から出ることはできず自由はなかった。現地で書かれたものはほとんど持ち帰れなかった」と、振り返る。

 同時に見つかった写真は9枚。木材運搬や死者を運ぶ様子などが写っている。同じ収容所で知り合ったドイツ人捕虜が撮影したもので、帰国後にドイツから送られてきたものだった。

 駒杵さんの妻(84)は「靖国神社が預かってくれるならば、これほどうれしいことはない」と、夫らの苦労をしのんでいる。

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